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ようこそ!教会は心のくつろぎの場です。
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お知らせ
新型コロナウイルス対策を踏まえた教会活動の注意事項に関するお知らせ (2023/11/24 更新)
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ママとキッズのホッとタイムに関するお知らせ (2023/4/7 更新)
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礼拝メッセージ
2月22日 聖日礼拝 桑原晴美伝道師
「キリストこそ全てにまさる宝」 ヨブ記42章1〜6節
ー、「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか」(1・9)。これは私たちクリスチャンにも問われるチャレンジである。私たちは神が祈った願いをかなえてくださるから、あるいはいつも祝福してくださるから神を言頼しているのだろうか。
ー、「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません」(9・33) 。
全能者なる神の裁きの座に立てる者などいない。ヨブは仲裁者が必要なことを認めている。
それは天におられる保証人、神にとりなしてくださる方である(16・19〜21)。
ー、「私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれる」 (19・25)。この方こそ私たちを罪の奴隷から贖ってくださる方、人となって地上に来られたイエス・キリストである。
ー、「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」(38・2、42・3)。
私たちは神のご計画を知らない。神の臨在を前にヨブが充分であると喜びに満たされたように、キリストをじ聖霊を頂いた私たちはその事実の前に喜ぶ者でありたい。
2月15日 聖日礼拝 富居博典牧師
「苦難と栄光の救い主」 イザヤ書52章13節〜53章5節
古代の神学者アウグスティヌスは、「旧約聖書は新約聖書の光の中で読まれるべきである」と言われ、その視点で見ると救い主の御姿が鮮やかに浮かび上がる。
一、預言されていた救い主
著者イザヤはBC745年から680年頃に活動したと推定されているが、この記述は実に生々しい。主の十字架を目撃した別の誰かが、書いたと考える神学者もいたと言う。しかし死海文書の発見を機にその考えはなくなった。神の預言に誰も口を挟むことは出来ないのです。
一、栄光に向かう前の苦しみの救い主
「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。」とあるが、砂漠の中から出た根のようであり、見るべき姿も輝きもない。十字架に向かうイエス様である。あくまでも主の前に生きようとする御姿がそこにある。しかしただ苦しみに耐え忍ぶのではなく、高く栄光に輝く復活の主が先に宣言されている。
一、罪人の身代わりとなられた救い主
十字架の死は私たちのためであり、身代わりである。(53・10)イザヤはこの事実を既に目撃したかのようだ。私たちはこの恵みをどこまで理解しているだろうか。過去に捕らわれることなく、イエス様の愛に新しく生きる者とされたのです。(第一ペテロ2・24)
2月8日 聖日礼拝 桑原晴美伝道師
「真理はあなたを自由にする」 ヨハネの福音書8章31〜36節
一、「真理とは何か」。旧約時代における〈真理〉は、契約に対する神の誠実さ、真実さであった。それが新約時代には、神の完全な啓示であるイエスキリスト、その方を指すようになった。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)真理から外れるものとは、人となって来られた神の子キリストを否定するものである。
一、「自由とは何か」。それは、神を見失い、神に造られた本来の自分を見失い、自身を心から愛せなくさせる〈罪〉の力からの解放である。罪を行っている者はみな、罪の奴隷である(34節)。自由とは奴隷とは逆の立場、息子になるということである。息子は、奴隷と違って〈いつまでも〉(永遠を意味する言葉である)家にいる。神の息子になるということは、神との永遠の関係に導き入れられるということである。
一、「イエスのことばにとどまる」(31節)。ヨハネは〈とどまる〉という言葉を福音書で40回使う。〈とどまる〉ことが、真理からそれないために大切である。聖書に書かれたイエスのことばを心にたくわえ、黙想しよう。いつも御言葉に近く歩めるよう聖霊により頼み、二度と不自由な奴隷のくびきを負わないようにしたい(ガラテヤ5:1)。
2月1日 聖日礼拝 富居博典牧師
「いのちを得るために」 ヨハネの福音書20章30〜31節
使徒ヨハネは十二弟子の中で三側近の一人として、重要な場面にイエスと共にいた。そこでこのお方はただの人ではない、神の御子であり唯一無二の神であると知るのです。ヨハネはこの事実を伝えたい一心で筆を取る。ヨハネの福音書とその目的について思い巡らそう。
一、イエスが神の子であることの目撃証言
イエスが神の御子として、この地上に来られたことをバプテスマのヨハネが証言している。またイエスの母マリアと共にヨハネはイエスの死を目撃している。そして復活の最初の目撃者マグダラのマリアの驚き、弟子たちも主を見て喜んだことを記す。すべてはイエスが神の子である事の証言です。
一、イエスが神の子キリストであることを信じるため
キリストとは救い主の意味です。あらゆる困難そして罪の滅びからの救い主です。私たちに出来ることは、この救いを成し遂げて下さったお方に心開き信じることです。
一、イエスの名によっていのちを得るため
いのちとは信じる者に宿る霊的な命です。それは死んだ先に与えられるのではなく、この地上にあって信じる者の心を満たし、主と共に永遠まで生かしてくださるのです。(ヨハネ4・14)
聞こえていますか、あなたを呼ぶ声
人はだれでも愛されたいと思います。愛なしでは生きられないように造られているからです。人はだれでも永遠を思います。永遠に生きるように造られたからです。人はだれでも真実なものに感動します。真実な神が私たちの創造主だからです。
事実、私たちを造られた神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と語りかけておられます。
ここに私たちの人間としての尊厳があります。
砂漠に放置された時計は、どんなに正確に時を刻んでも、それを造った人間と向き合い役に立たない限り、空しいと思うでしょう。
私たちがどんなに発達した文明の中にいても、どこか孤独で空虚で不安な理由は、私たちを限りなく愛しておられる神に背を向けているからです。私も思春期に大きな挫折の中で、聖書を通してこの神にお出会いして、六十数年、喜びと希望に生かされて来ました。
教会こそあなたの生きる意味と生きる喜びを与える唯一の場所です。
東京若枝教会は、あなたをお待ちしています。
牧師 飯塚 俊雄
教会紹介
私たちの教会は1968年、練馬区関町の借家の八畳の板の間から始まりました。
現在の牧師は音楽性ゆたかな飯塚弘道牧師です。
地域の方々に愛され、親しまれ、今や毎週の聖日礼拝には90歳をこえる方々から、働き盛りのパパやママ、青年、学生、中高生、小学生はもちろん、赤ちゃんにいたるまでたくさんの人々でにぎわいます。
牧師の心は温かく、お話はわかりやすく、慰めといやしと希望のメッセージはきっとあなたの心にも届くでしょう。
※当教会は統一教会、モルモン教、エホバの証人、幸福の科学とは一切関係ありません。
また当教会では駐車場整理の都合上、車でお越しの方には駐車票の掲示をお願いする場合があります。ご理解のほどお願いします。
